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Spiritual Hacks

心に愛を刻み付けて生きていくしかないから。

何にも無くても、大丈夫。

そらです。眠いです。寝不足MAXですが、気持ちが高ぶっているのでブログ書きます(謎)

 

日本的に「スピリチュアル」っていうと、一時期の「意識高い(笑)」みたいな扱いをされているように感じていて、「スピリチュアル(笑)」みたいな書き方が一番しっくりくるのは、私だけなんだよね、きっと。

 

20年くらい前、「精神世界」って呼ばれてて、アメリカでは「ニューエイジ」って言われてた辺りの出身なもので、どうにも、今の日本で使われている「スピリチュアル(笑)」の定義についていけなくて困る。

 

何が困るって、他人と話してて、話が合わないの。自分の中の定義と、相手の定義が前前違うから、「何それ」ってなる。

 

どうも、人って、すぐに、物事が変化する「魔法の薬」を求めすぎてて、結果、「スピリチュアル(笑)」だったり、「引き寄せの法則(笑)」みたいな感じになるのよね。

 

この傾向は、東西関係無くて、西洋なんかもっと極端だからね。

「このヒーリングを受ければ、お金持ちになれます」みたいの、考えるの、得意じゃん。

 

 

でね、そういうのがいい加減、嫌になったそらさんは、どうしたかって言うと、「スピリチュアル(笑)」を断捨離したんです。

もう、いいやって思って。自分で定義したスピリチュアルに振り回されるの、面倒になったわけですよ。

 

そうやって考えると、スピリチュアルリーダーとか呼ばれる人たちって、すげぇなって思うよ。何十年も同じことしてるじゃん。

あ、違った、同じことはしてないんだ。どんどんバージョンアップしていって、どんどん貢がないとついていけなくなるんだったっけな。

まぁ、ビジネスだから仕方ない。信じてる方々はご愁傷様だけど。

 

で、まぁ(笑)そういうのを捨ててみた結果、残ったのは「何にも無い」ってことなんだよね。

 

自分を飾るため・・・違うな、飾るんじゃなくて「武装」するために、色んな資格を取る人っているじゃん。

そういう感じで、スピリチュアルな資格をいろいろ取ってさ、「〇〇ヒーラー」とか「〇〇セラピスト」「〇〇カウンセラー」みたいなのを名乗ってさ。

そういうのが「すげぇ!」って思ってた時期がおいらにもありましたよ。実際、自分でも作ってたし。でもさ、それって、幸せなん?って根本的に感じてたし、たぶん幸せじゃなかったから、辞めたんだよね。

 

じゃあ、今は、何を拠り所にしてんの?ってことなんだけど、数あるスピ本の中で、一つだけ残したものがある。

それは・・・予想ついてると思うけど、「ACM」。そう、奇跡のコース。

この青くて分厚い本だけ、残したの。ここに全部書いてあるからいいや、って。

 

おいらはどうしても、原理主義的になってしまいがちなので、ゆるゆる実践するようにしてるけどね。肩のチカラを抜いて、固くならないように、感情の波をフラットに。

 

「わたしは何も知らない」

今のところ、ACIMの中で一番好きな言葉。

 

ワークブックの最初の言葉なんだけど、これが一番好きかな。

知ってるって思ったら、それはエゴの意識だからね。

魂の視野なんて見えないし、今は見ようとしなくても大丈夫。

どうせ、何にも無いから。

何にも無いけど、大丈夫なんだって解ってたら、それってスゴイことなんじゃない?

 

明確に否定しちゃったら、ダメじゃね?

最近、ドラマを観てる。

Twitterで絡んでる方はご存じだと思うけど、「嫌われる勇気」というドラマを観てる。

 

「嫌われる勇気」っていうのは、元々アドラーの考え方を紹介した本で、「先生と生徒」っていう解りやすい構図で話しが進むので、「哲学なんて難しい」って思った人にも読んでほしい良本なのね。

 

おいらは「嫌われる勇気」と、続編の「幸せになる勇気」も読んでて、しかも本を読んだ後、引越しした時に手放したんだけど、結局また読みたくなって電子書籍版買ったって言うくらい、好きな本。

 

この「嫌われる勇気」をドラマにするっていうんで、放送前からかなり楽しみにしてたんだよね。若者と先生、キャストはどうなるのかなぁとか、連ドラにするにしても中身が濃ゆいから、どの話が採用されるのかな、とか。

 

ところが、「実写化」するにあたって、不思議なことが次々と起き始めた。何故か「刑事ドラマ」になったり、本には出てこない女性主人公が出てきたり。

一抹の不安を感じつつ放送を観はじめると、やっぱり違和感が強くて、ドラマとしては面白いんだけど、アドラー初心者のための入門としては、なかなか難しいねってところが多々ある。

 

例えば主人公である蘭子さんの性格。色んなものを明確に否定しちゃったり、「それは私の課題ではありません」って関わることを避けたりしてるんだけど、「アドラーやり始めると、こんな風な人になるんだ!」って思われたら、アドラーのカウンセリングやってる人たちは、たまったもんじゃないよね。

 

アドラーは、まずどうやって自分を理解していったらいいかってのがベースにあって、最終的には、どうやって自分と周囲を関連付けていくか、ってのがあるわけで。そこが「明確に否定」されると、ちょっとそれはアドラーではなくて、サイコパスに近いかもしれない。

 

あと、椎名桔平さんが(役のセリフで)言い放った「ナチュラルボーアドラー」ってのにも笑った。「そんな言葉があるの?」って思わず調べたけど、在るわけない(笑)。

しかも、同じように感じた人がかなりの人数いたみたいで「ナチュラルボーアドラー 意味」とか、「ナチュラルボーアドラー って何」とか、予測変換の嵐(笑)。そりゃ、そんな「ナチュラルボーンキラー」みたいな言われ方したら、気になって仕方ないよね。

つまり、このドラマは、アドラーをベースに、面白そうで耳に残る単語を散りばめて、なんとなく「蘭子さんが変人なのは生まれつきアドラー心理学を理解しているせい」みたいなことになってるわけなんだけど・・・。

 

たぶん、「嫌われる勇気」をあらかじめ読んでる人は面白がって観られるけど、それを本気で真面目に広めようとしてる人達にとったら、とんでもないことだよね。「人の畑、荒らすな!」ってやつ。

 

って思ってたら、総本山が抗議文出してた。

「テレビドラマ『嫌われる勇気』に対するフジテレビへの抗議文をこちらに掲載しています。(02月10日)」

(日本アドラー心理学会の抗議文へリンクしています)

http://adler.cside.ne.jp/common/pdf/fuji_tv.pdf

 

ATARU」の時も感じたけど、ドラマ(一部のドキュメンタリーも)にした瞬間に、なんだか「自分たちとは関係ない、すごい人(能力者)が出てくるドラマ」みたくしたがる感じがあって、イラっとする要因になる。

 そうじゃなくって、捉え方が違うだけなんだよね。普通に生きてたら拾わないところを拾うようになるだけ。見逃していたこと、見過ごしていたことに、気が付くようになるだけ。

その部分だけをドラマにしてくれたら良かったのに、変に刑事ものにしたり、ややこしい性格の女性出したりするから、本質から外れてノイズが増えて、要点がぶれていって、最終的に何がいいたいかよく分からないドラマになっちゃってるように感じる。

 

もう、椎名桔平加藤シゲアキだけで良かったのに(笑)。いや、ドラマとしての「嫌われる勇気」は好きなんだけど・・・アドラーか?って言われたら、「かもね?」ってくらいの掠り方しかしてないんだよね。

 

所々、「他者の課題」とか字幕出して強調してくる感じとかあって、「あぁ、それの話なんだ、今日は」みたいな気持ちになるのね。

 

だったら、もっとわかりやすいエピソードにしようよとか、思う所はいっぱいあるの。でもまぁ、観てるだけだから何とでも言えるんであって、現場の人は一生懸命作ってるからね。

 

それでも、総本山が抗議書出してるのは、あまりにも内容がアドラーから離れていってるからなんだろうな。同じ言葉を使ってるんだけど、意味が違う、みたいな。

 

先週の放送では、蘭子さんの暴走っぷりに課のみなさんが辟易しつつ、それでも「自由で羨ましい」っぽいせりふを言わせていて、さぁ、これから課の全員で暴走し始めるのか?って雰囲気が出てきて怖いんですけれども。

 

この先の脚本が、ドラマ独自路線を突っ走るのか、総本山に少し近づくのか、(ドラマの内容の展開はさておき)目が離せないですね~。

 

 

 

 

 

 

あれ?

おかしいな、もう2月も半ばだ。

↓前回誓った内容はこちら。

spiritualhacks.hateblo.jp

 

 

 

さて(気持ちを切り替えて)。

2017年になってから、何してるのかって言ったら、某歌姫じゃないけど、人間活動というか。生き直してますって感じです。

 

 

「何が言いたいの?とうとうおかしくなっちゃったの?」って言いたくなった方は、ぐっとこらえて?

 

あのね、スピリチュアルなことやってると、どうしても地に足が付かなくなるじゃないですか。

 

地に足がついてないとどうなるかっていうと、この世を生きにくくなる。

さっさとあちらの世界に戻りたくなる。

あまつさえ、この世のものを悪だと思い込むようになる。

 

それ、全然違うんだって。

そもそも、善悪っていう価値観からしておかしい。

どっちも含んでいて、融合されていて、区別なんてつけられないのが3次元の世界。

まさしく、「表裏一体」っていうのがピッタリなんだよね。

 

この世は、自分の心が作り出した世界。

事実なんて、あるようで無いんだよ。

でもって、どんなことでも「事実」にしてしまうのが、「自我=エゴ」の得意ワザ。

だから、「事実」とか「真実」なんてものに心捉われたら、一歩も動けなくなるんだよね。

 

でね、そういう風に言ってたのに、解ってたのに動けなくなってたのが、去年までの自分。

もう、しっかり、蔓に絡まって、うだうだしてたよね。

土星期来てるからしゃーないんだよとか、天中殺だから動けないんだよとか、もうえぇっちゅうねん。

 

いい加減、自分で作った罠から抜け出たくなったんです、わたくし。

というわけで、穴から這い出てまいりました。

寺に籠るのはもう辞めた、っていうのは、前回も書いたな、そういえば。

 

で、久しぶりのシャバ(精神的なやつね)は、眩しくって眩しくって。

眩しくて目が開けてられないんで、もいっかい目ぇ閉じたよね(笑)

 

でも、ちゃんと目を慣らして、歩み始めたですよ。

久しぶりに歩くから、よちよち歩きだけどね。

 

そういう風に、自分を叱咤して、もう一度この世を生きなおそうとしたら、

これが面白いんだけど、スピリチュアルな話がバシバシ入ってくるんだ。

今までのは何だったん?ってくらい。

 

あれだね、求めると手に入らない法則。

引き寄せようとしてるのに、引き寄せられない法則。

執着を無くした途端に来るようになるんだ。

なんで占い師してた時に相談してくれなかったんだよ、みんな(笑)

お金いただいてたら、軽く1ヶ月分のお給料くらい稼げたぜ、先月のおいら・・・

 

まぁ、そんなこんなで、スピリチュアルとは別のことを始めております。

3次元で生きている実感を伴い始めております(笑)

 

スピリチュアルな活動が嫌いになったわけでは無いし、

スピリチュアルな思想、思考活動はこれからもしていくよ。

ただ、それを生きる糧にすることを辞めたよ、というお話でした。

 

 

 

 

 

この世を生きて思うこと。

こちらではお久しぶりになっちゃいました。

twitterでも時々呟くの忘れるんで・・・2017年は、もう少し真面目に書こう(年末行事)

 

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昨日、早稲田の穴八幡宮に行ってきました。

朝9時半に待ち合わせしたんですが、案の定15分遅れた・・・いつもごめんね、みやちゃん。

 

昨年は夜に行ったので、ものすごく混んでたんですよね。冬至後の平日夜って、寒いし列長いし。階段で20分くらい待って、昇ってからも15分くらい待って、やっと買って、お参りして、屋台で手相見てもらった覚えがあります。

 

今年は朝早かったので、行列もなくサクサクと行ってこれました。メインの一陽来福御守りと、懐中御守。それぞれ、800円と300円です。懐中が5個あるのは、お世話になってる方にお配りする分。

 

あと、今年は福財布も購入してみました。800円でした。宝くじは買わないんですけど、普段の生活費やら何やらを入れておく場所ってきちんとしてないな、と思って(普段は机の上に銀行の封筒で無造作に・・・)。

 

入れておいたら、知らないうちに倍になってると面白いんですが。ポケットの中のクッキー的な感じで。

 

御守り買ったあとに、みやちゃんとだべってたんですけど、この世に生きるって、どういうことなんだろうね、と。

 

御守りを買って神様を頼るくらいには、この世を幸せに生きていきたいという執着がある自分は、所詮、どうでもいいこの世の中で、どんな風に生きていきたいんだろう?

 

と、考えた時に出てくる答えは、やっぱり「だったら幸せに生きたいよ」なんですよね。幸せに生きるためには、ある程度のお金も必要だし、人間関係だって必要。それらを有限と考えるのではなくて、自分の中から出てくる豊かさの象徴なんだ、と腑に落とすことによって、その状態が実体化され、有限ではなくなる。

 

そんなことを実際に体感できた1年だったと思います。あと、スピリチュアルな生き方を学んでいく上で、スピリチュアルを職業にする必要無いんだな、っていうのも学びました。自分は、どうもそうした方が「宇宙の壮大なお節介」が入りやすいみたい。最後の3カ月間、怒涛のようだったもんね。

 

スピリチュアルな生き方をするために、スピリチュアルな職業に就く必要ないんだなっていうのは、最近のお坊さんの在り方を見てても感じます。

 

お寺のお坊さんって、本来は出家して頭を丸めて、お寺に籠る印象があるでしょ。でも、最近は頭を丸めない、在家出家という方法を取る方も少なくない。

 

もちろん、全てを捨て去ってスッキリ出家できた方が良いのかもしれないけど(お寺は煩悩を捨てる場所だからね)、シャバで煩悩を捨て去る方が、難易度としては高いんじゃないかなぁ、と思うわけです。

 

そういうわけで、来年は、シャバでスピリチュアルな生き方を模索しながら、幸せに生きるための具体的な策を実践していきます。

 

あと、もう少しブログ書こう(二回目)

 

 

 

 

 

 

 

「特別な愛」に目が眩んでると、真実が隠れていくよねって話。

そろそろね。

「特別な関係」とか「この恋愛関係は特別なの!」ってやつ、止めた方がいいんじゃなかなぁって思うんですよね。

 

自分の廻りだと、他人におおっぴらに言えない関係をしている人種が「これは特別な関係だから」と言ってみたり、万年恋愛負け組だった女子が、久しぶりに恋をして「これは特別な恋なの!」とはしゃいでみたり・・・

 

「えっと(絶句)」ってパターンが多い気がするのは気のせいってことでいいんですかね・・・。

 

「特別」っていう感覚は、エゴのこだわりであって。自分自身と、対象となる相手との関係性が、他とは違う、っていう認識をした時点で「マボロシ」なわけですから。

 

マボロシ」は消える運命にあるわけで。消えてしまうものに拘るのって、なんか違うよなぁって。

 

そもそも、この世の標準は「移り変わっていくこと」なので、安定的かつ絶対的な関係なんて、結べるわけがなく。そう考えると、「結婚」という制度自体が、エゴの産物なんだよね、と思い当たり。

 

だからといって、フリー〇ックス万歳なわけではもちろん無くて、各々が各々にとって、ただ居心地のいい関係を作っていけばいいんじゃね?って感じです。

 

だってさ、あんだけ仲良しアピールしてた、アンジェリーナ・ジョリーブラッド・ピットだって離婚申請しちゃう(されちゃった?)わけですよ。大量の子供どうすんねんと思うけど、まぁ、どうにかするんでしょうけど。

 

この世界で「唯一無二の関係」とか、求めれば求めるほど、違う方向へ行っちゃうなって思います。それに、そういう関係だと思って結婚したら、お互いにエゴの理想を押し付けあっちゃうでしょ・・・だから離婚する夫婦、どんどん増えてるんじゃないかなぁ。恋してる時って、相手のこと、ほとんど見えてないのに、その勢いで結婚するもんね。

 

twitterにも呟きましたけど、ほんと、ソウルメイトとかツインソウルとかに拘るの、そろそろ止めた方がいいですよ・・・じゃないと、もうすぐ「ソウルメイト詐欺」とか、「ツインソウル詐欺」が出てくるんじゃないでしょうかね・・・まぁ、エゴに捉われてなければ、騙されないと思いますけど・・・。

 

「赦す」って難しいですか

「赦す」って、色んな言葉で説明されてるど、これほど難解に感じるテーマも無いよね。

 

このブログでも、きっと何度も書くことになると思いマス。

 

 

最初に「赦し」というものを知ったのは、やっぱり、というか、バシャール。「手放す」という言葉でしたけど、言ってることは同じ。同じなんだけど、その頃は、意味を正確に捉えられるわけもなく・・・

 

「なんか意識しないようにすればいいみたい?」

 

なんて、だいぶ明後日の方向に解釈してましたねぇ。

 

 

ここ数年、ゲイリー・R・レナード氏の「神の使者」を読み始めてから、やっと「赦し」の意味が解ってきた感じ。

 

ロバート・シャインフェルド氏の「ザ・マネーゲームから脱出する法」にも似たようなことが書いてあるんだけど、回りくどくなりすぎてて、本質が伝わってこなかった→主に、私に。

 

 

まぁ、そんなこんなで、「赦し」の意味、さっぱりわかってなかったんですよね。「許し」だと思ってたり、「緩し」だと思ってたり。なんちゃってスピ系だと「ユルシってコトダマがあらわすのはぁ」なんて言ってたりしますけど、そういうの、ぜんっぜん関係なかったしね。

 

「赦し」は「赦し」って言葉以外、使えないんだわ。

 

何故なら・・・

 

「捉え方を本来の姿に戻す」ってことだから。

 

 

そもそも、この世は幻想だから、目の前に現れるものは全て、存在しない。

だけど、エゴが主体になっていると、反応してしてしまうよね。そうすると、目の前にあるものは現実だと感じてしまう。

 

で、昔の自分は、「起きた出来事を許す」だと思ってたのね。

「こんな嫌なことが起きたけど、まぁ、許してあげますよ、みんな許せって言うし。その代わり、次にこんなこと起こしたら・・・わかってますよね?」って感じだった(笑)

 

どんだけ、上からなの・・・はぁ、知らないって、怖い。

 

じゃあ本来の「赦し」って何よ、ってことなんだけど。

「全部幻想なのに、うっかり実在するって思って反応しちゃいましたっ!!赦すから、赦してぇ!!!」なんだよね、手っ取り早く言うと。

 

目の前で起きたことは、実際には起きてない。

何故なら、幻想だから。

 

幻想の中で起きた出来事については、誰の責任でもない。

だって、幻想だから。

 

だから、何にも起きてなかったし、誰も罪は犯してなかった。

・・・はずなんだけど、「でも、おまえ、こういうことしたじゃん、謝れ、責任とれ」って感じちゃうから「全て幻想だったことを思い出して、何も起きておらず、誰にも責任がないことを思い出します」っていうのが「赦し」の意味なんだよね。

 

ほら、許可でも、緩んでもないでしょ?

 

そんで、次に何するかってことなんだけど、ひたすら赦す。

ただただ、赦す。

 

最初は赦すことばっかりですよ・・・朝起きて、いきなり赦す。

ちっくしょう、仕事行きたくないな・・・あ、赦します、みたいな。

満員電車を見てうんざりして・・・ん、赦す、って感じで。

 

そんな風に赦して、赦して、赦しまくるわけです。

そうすると、どうしても赦せぬ、むしろ、赦したら負け!って感じることが出てくる。

 

そういう時はどうすんの・・・?って話は、次回に。

 

 

 

 

 

 

 

引き寄せの法則の話 その(2)

「引き寄せの法則」を使うと、引き寄せられたり、引き寄せられなかったりすんべ、という話の続きです。

 

じゃあ、どうしたら100%の確率で、引き寄せを成功させることができるのか。

そもそも、そんなことできるのか。

 

やり方としては、あります。

自分もその方法で引き寄せしてます。

どんな方法なのか、ヒントを載せます。

 

ヒント;

雨が降るまで、雨乞いし続ける民族

 

(それヒントちゃう、アンサーや・・・)

 

 

はい、「アホか」って思った人は手をあげろ。

だってほんとにコレ、真実なんだもん。

これ以上の最上な方法、無いっすもん。

 

 

引き寄せられない状態、っていうのは、「引き寄せられない」または「引き寄せられない、かもしれない」っていうことを信じている状態、なんですよね。

 

これでは、いつまでたっても、引き寄せられてこない。

 

反対に、引き寄せられる状態、っていうのは、「それが引き寄せられてくる」ことを信じている状態、なんです。

 

「くる」って思ってるから、くる。

「こない」って思ってるから、こない。

 

ただ、それだけのことなんです。

 

 

だから、引き寄せたけれは、ただひたすらに、それが「くる」ことを、信じていればいいんですよね。

 

この話、『ワンダラー達への伝言』にも書いたんですけど、ケーキでね、ミルクレープをオーダーしたくせに、違うケーキが来たらどうしようって悩んでるようなもんですよね。

 

ミルクレープをオーダーしたんだから、ミルクレープが来るまで待ってればいいのに、「他のケーキが来たらどうしよう」とか、「あぁ・・・ほら、やっぱりコーヒーが先にきちゃったじゃん」とか、「まさか今日、ミルクレープ売り切れじゃないよね?」とか、わざわざ心配する必要、無くないですか?ってことなんだけど。

 

で、実はオーダーした後にこうやって心配することで、その心配が全て追加オーダーとして入ってることになるから、「結局どうすんねん!もうめんどい、お前今日ケーキ食べんのやめとき!」ってなって、結果、何にも来ない、ってことになるわけで。

 

引き寄せできてない人って、こんな感じのことが起きてます。

そりゃ、来ないでしょ。

 

というわけで、ヒント(という名のアンサー)に戻るんですが、雨を降らせたきゃ雨が降るまで雨乞いしなさいよ、と。

 

「それができたら苦労じゃないんじゃ、ボケェ!」って思った人は。たぶん、エゴに思いっきりヤられてるんで、まずはそっちの対処をした方がイイかも、ですヨ。